「性」を中心に据えた、力に頼らない日本古来の集団統合~誓約(うけい)~
弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。
     
日本民族の精神の根底にある「誓約(うけい)」という概念。
これをさらに深く掘り下げた記事を紹介します。
     
相手を否定し征服するのではなく、相手を受け入れ和合する事でその安寧を保ってきた日本人のこの精神は、略奪闘争から隔絶された島国ゆえに醸成された独特の文化です。
     
一つの国家内に様々な部族・民族が存在する状況は世界的に見て珍しい事では有りませんが、和合と同化、共同性をもって統合を成し遂げてきた日本のこの考え方はきわめて独特、かつ人類としての普遍性を持っています。
「性」を中心に据えた力に頼らない集団統合、この発想の柔軟性には見るべきものがあると思います。
     
大抵の解説で、誓約(うけい)を安易に「占いの結論や神に対する祈りの誓(ちか)いの事だ」としているが、実は本質を知っていてその結論を表記する事を避けている向きが多い。
神話や伝説の類を良く読んで見ると、誓約(うけい)はロイヤリティ(忠誠心)を示す為のもので、誓約(うけい)の結果として新たなる神や子供が誕生する事が多い。
つまり、性交を伴う現実的な忠誠の証が誓約(うけい)なのである。
大和朝廷成立前後の古(いにしえ)の日本列島は、民族(部族)の坩堝(るつぼ)だった。
古い時代に住み着いた在来部族と、後期に渡来した進入(流入)部族の生きる為の争い。
その手打ち式が天の岩戸の宴席、岩戸神楽だった。
日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。
異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し、双方が滅びないで済む究極の和解であり民族同化の象徴である。
この誓約(うけい)の概念が、実はその後の二千年の永きに渡り日本の民(民族)の形成に大きな影響を与えて行くのである。
     
基本的に、人類は「群れ社会」の動物である。
人間の行動の全ては、生き行く事の恐怖心から始まっている。
食料の確保、外敵、傷病、全てが生き行く為の恐怖に繋がっているから群れて「共生」して来たのである。
人類は群れて生きる共生動物だからセッション(交流)が大事で、そのセッション(交流)の最たる形態的象徴が性交を手段とする誓約(うけい)である。
誓約(うけい)のそもそも論は「対立の解消」にあり、その究極の証明形態が契(ちぎり/性交)に拠るコンプライアンス(要求や命令への服従)の実践で、後に恋愛感情に発展する事は有っても初期の段階では恋愛感情とは全く別のものである。
         
この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。
元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞ
れが土地を占有して小国家を打ち立てた。
その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。
       
太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。
その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。
弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。
つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。
そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。
語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。
直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事をおいて他に無い。
つまり日本民族は、日本列島に流入してきた異民族同士が現地の先住民も巻き込んで合流し国家を作った。
     
異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。
それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。
その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。
「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
つまり、食料確保の為に縄張り争いによる殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。
この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、異論は無い筈である。
現在の国家意識、民族意識、つまり所属意識の原点は、「同じ血を共有する」と言うこの誓約(うけい)の概念である。
     
明治維新で日本の性文化が劇的に変わるまでは、恋愛感情とは別に誓約(うけい)の概念に拠るセッション(交流)の最たる形態的象徴「性交」が群れの「共生手段」として社会的に容認されて来た。
そこで、「欧米のキリスト教文化」とは違う「日本独自の性文化」が存在したのである。
その歴史的事実を、日本は先の大戦(第二次世界大戦)以後の急速な欧米化に拠って抹殺してしまった。
つまり歴史的経緯の中で醸成された「独自文化」であったにも関わらす、ほんのここ百~二百年かそこらで存在しないがごとく封印されてしまった。
隠すだけでは「問題は解決しない」と言う現実は多いのだが、建前を使う事に慣れ過ぎたこの日本国においては、都合の悪いものには「見っとも無い。外聞が悪い。」と蓋をして、何一つ解決せずにやり過す風潮が多過ぎるのである。